2013年04月08日

不平等を無くすためのダンス

(法務コンシェルジュメールマガジン2012年11月28日号掲載)

明治16年の今日は鹿鳴館の落成祝賀会が開かれた日です。
鹿鳴館は現在の日比谷公園のすぐそば、都内の内幸町にありましたが、昭和15年に取り壊されました。
鹿鳴館は外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府が建てた社交場ですが、社交場として使用されたのは明治16年からわずか4年間でした。

当時、日本に滞在する外国人が犯罪を犯しても日本国内の法律で裁判することができませんでした。
これを治外法権といいますが、不平等な条約だということで一刻も早く改正することが明治政府の悲願でした。
でも当時の外国人の正直な感想として、日本の役所に逮捕されたり裁判されたりするのであれば、怖くてとても日本にいられなかったでしょう。
江戸時代の日本は一罰百戒。
年間江戸の町だけで1000人以上が刑死されていたという信じがたい話もありますが、外国人から見ればちょっと前まで残虐極まりない刑罰が公開で行われていたわけですので、とても「平等」というわけにはゆかなかったでしょう。

要するに、当時の日本は野蛮だとみなされていたので、明治政府としてはなんとかして「欧米文化を身につけた優等国」であることを見せ付ける必要に迫られました。
そこで考え出したのが官営のキャバレーだったというわけですが、実は外国人からの評価はイマイチだったようです。

当時の日本人が社交ダンスや洋食のマナーを見よう見まねでやったところで、本場の一流には程遠く、ひそかにバカにされていた様子です。
むしろ当時の外国人には、日本古来の伝統や美意識の方が畏敬の対象となっていたようで、国内外であまり評判が良くなかったことが、鹿鳴館の短命の理由だったかもしれません。

当初は見よう見真似で始めた社交ダンスですが、一方では「男女が腕を組んで踊るなど卑猥だ。」
という日本的な評価もありまして、現在に至るまで風営法によるダンス営業規制が残っています。
社交ダンスだけが規制を受けるのは「不平等」ということでしょうか、最近はクラブハウスなど社交ダンス以外の踊りに対して取締りが厳しくなっていて、今後さらに強化されるきざしもあるようです。

昨年から義務教育で必修化されたダンスですが、法的な位置づけにはまだいろいろな問題が残っているのです。
posted by 風営担当 at 00:00 | 歴史チャンネル

2013年03月28日

古代のNGワード!? 幻の毛の国とは

(法務コンシェルジュメールマガジン2012年11月14日号掲載)

通勤の途中で見かける小さいスナックがありまして、店名が「下野」とあります。
栃木県出身の人が経営しているのかな・・・と想像してしまうのは、「下野」は栃木県の古い国名だからです。

律令体制における栃木県は「下野」と表記し、「しもつけ」と読まれましたが、この国名の由来は「下の毛」にあります。しかし、別にひわいな話ではありません。

まだ古墳が作られていた時代のことですが、現在の群馬県と栃木県あたりには「毛」と呼ばれる国がありました。
このあたりには大型の古墳群がいくつかあって、大和朝廷と肩を並べる強大な王権があったと想像されます。

「毛」なんて国は歴史のどこにも出てこない?
いやいや。記紀の中では「上毛野田道(かみつけのたぢ)」や「上毛野形名(かみつけのかたな)」などの武将が蝦夷討伐で活躍していますし、文武天皇の時代に律令編纂に関わった下毛野古麻呂の記録もあります。
これら「毛氏(けのうじ)」は毛の国の王族の地を引く人たちで、大和朝廷における有力貴族でもありました。
「毛」という字からは、体毛が濃かったかもしれない東国の蝦夷の地を引いた部族がイメージされますが、実際のところよくわかりません。

鬼怒川という川がありますが、かつては北関東の水を集めて霞ヶ浦方面にそそぐ大河でした。
もともとは「毛の川(ケノカワ)」と呼ばれていたのが「キヌガワ」になまったものとも言われています。

古来より、中央に近い方を「上(かみ)」、遠い方を「下(しも)」と言います。
毛の国のうち、畿内に近い群馬県側を「上つ毛の国(かみつけのくに)、遠い栃木県側を「下つ毛の国(しもつけのくに)」と言いました。

ですので、もともとの国名表記は「上毛国」「下毛国」でした。
しかし、古代においてもこの言葉の表記は微妙だったようです。
現代人でも頭髪のことを「髪(かみのけ)」と言いますが、これは本来「上の毛」であります。
では「下の毛」が何を意味するか、おわかりですよね。

要するに「下毛国」という表記は当時でもNGワードだったということで、和銅6年(713年)に発せられた勅令「諸国郡郷名著好字令」によって「毛」の字は野原を意味する「野」に変えられてしまい、「上野国」「下野国」となりましたが、「かみつけ」「しもつけ」という読み方だけが残りました。

NGワードゆえに歴史から消された「毛の国」ではありますが、両毛線という鉄道がありますし、上越新幹線では上毛高原駅があります。
今でも「毛の国」の痕跡は残っているのです。

posted by 風営担当 at 00:00 | 歴史チャンネル

2013年03月18日

実は私、ゲスでした

(法務コンシェルジュメールマガジン2012年10月24日掲載)


職場において、自分よりも上位の役職にある人のことを「上司」と言います。
上司の反対語はなんでしょう。
字から想像すると「下司」となるでしょう。「上」と「下」を入替えただけですね。

さて、「下司」はどのように発音するか。
「下司」を姓にしている人は意外と多いのですが、「かし」さんとか「しもし」さんとかいう読み方があるようです。
この姓を持つ方々のご先祖は中世の地方豪族だったかもしれません。
「上司」の反対語としての「下司」は、古来から「ゲス」と読まれてきました。

「ゲス」という言葉は、現代ではとてもひどい悪口として使われています。
「このゲス!」なんて言われたらケンカになりますね。
しかし、「ゲス」の由来は中世の下級役人を意味する「下司」だという話があります。

中世の日本において上級の役人は貴族階級であり、もっぱら京の都に住んでおりましたが、地方の行政事務は地方の有力者から選ばれた役人に管理させていました。
それら下級役人の職務のことを「下司(げす)」と言いました。
もともと「上司」「中司」「下司」は律令制における役職を示す用語だったわけです。

下級役人とは言え地方の名士ですから、当時の庶民からみれば「偉い人」のはずですが、中央にいる貴族階級からすれば「身分が低い人」だと言われます。貴族が日頃接することのできる地方民は「下司」に限られたでしょう。
なので、身分の低い人をさげすむ言葉として「たかが下司(げす)の分際で・・・」という言われ方もあったでしょう。

これが現代に至っても「下司の勘繰り」などと言って、「品性が卑しい人ならではの邪推」という意味で使われたりします。
最近、政治家が週刊誌とケンカすることが多いですが、「どうせ選挙のためだろう。」などとマスコミから言われるのは、政治家にしてみれば「下司の勘繰り」となるかもしれず。

しかし、下司は本来悪い意味の言葉ではありません。
現代でも「上司」という言葉は法律用語として残っているし、一般的にも使われていますが、「下司」は見あたりません。
部下が失敗をしたときに「このたび私のゲスがとんだご迷惑を・・・」とは言いません。
そういえば私もかつては下級の公務員でした。つまり、元ゲスということです。
だからと言って、役所の人に向かって「このゲスめ!」なんて言わないでくださいね。


posted by 風営担当 at 00:00 | 歴史チャンネル

2013年03月08日

貝殻で運命を切り開いた少年

(法務コンシェルジュメールマガジン2012年10月10日掲載)

明治維新から3年後の1871年、横浜港に降り立った17歳の少年がいました。
ロンドンの貧しいユダヤ人一家で、11人兄弟の10番目として育ったマーカス・サミュエルは、高校卒業の記念に父親からもらった三等船室の片道切符で、縁もゆかりも無い極東の島国へ一人でたどり着いたのでした。

ポケットにはたった5ポンド。宿代がないので湘南三浦海岸の無人小屋に住みついて来日後の数日を過ごしました。
フト浜辺に目をやると、見たことのない美しい貝殻が落ちています。この貝殻に自分で細工を加えてロンドンの父親に送りました。

父親はこの貝殻をロンドンの町で売り歩きました。当時のロンドンではその貝が珍しかったらしく、ボタンやたばこケースなどの装飾として飛ぶように売れました。父親は店を開き、少しずつ店は大きなって、少年はひと財産を築くことができました。

そのお金で23歳のとき、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を設立し、石油の採掘事業に進出しました。
事業がうまくゆくと造船の専門家を招いて、世界で初めて石油運送用のタンカーをデザインし、世界初の「タンカー王」となりました。
彼は自分のタンカーの一隻ごとに、日本の海岸で拾った貝の名前をつけました。

1894年、日清戦争が勃発すると、軍需物資の供給で日本政府に貢献しました。
また、台湾のアヘン中毒患者対策としてアヘン公社を設立しました。これらの功績により明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されました。

英国に戻ると親日家の名士として厚遇を受け、ロンドン市長になりました。
1921年、男爵の爵位を授けられ貴族となりました。

しかし英国国内では、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに反発が強まり、会社を手放すことになりました。
彼は手放すに際して、会社が存続する限り「貝のマーク」を商標とすること、という条件をつけました。

そのマークが、今でもガソリンスタンドでおなじみの「昭和シェル石油」のマークなのですね。
posted by 風営担当 at 00:00 | 歴史チャンネル

2013年02月18日

怖いものと危険なもの

(法務コンシェルジュメールマガジン2012年10月3日掲載)

小学校2年生の学校の帰り道、ちょうど今頃の季節でした。
田園都市線に乗って江田駅を通り過ぎたあたりで、車窓から見える小山の向こうに一本の煙が立っていました。
帰宅した直後にテレビを見て驚きました。その煙は横浜市内の住宅地に墜落した米軍機の爆発によるものでした。

三歳と一歳の幼児2名が全身火傷により翌日死亡し、そのお母さんも火傷のため4ヵ月後に亡くなりました。そのお母さんが車椅子に座っていた様子を覚えているのは、当時私の母親も同じ病院で入院していたからです。自分の母親は助かったけれど、あのお母さんは死んでしまったのだ、という思いが当時、私の心を離れませんでした。

私にとって軍用機は「怖い」存在です。
今住んでいる場所にしても、座間基地から近いところなのでヘリコプターの離発着の様子をよく見かけます。
そう言えば最近はヘリポート付の高層マンションがあって、「かっこいい」イメージではありますが、危険だからヤメロという反対運動はあるのでしょうか。
オスプレイの配備について、「危ないから反対」という気分は当然だと思いますが、「では他のリスクにはどう向き合っているのか?」と考えてしまうと、なかなか難しい問題を含んでいます。

軍用機でなくとも航空機はたくさん飛行しています。オスプレイが消えても沖縄に限らず広く全国で墜落の危険はあるのです。「飛行」を 「通行」に置き換えるなら自動車はどうなのか。国内だけで毎年6000人以上が着実に死亡し数万人が死傷していますが、オスプレイによる事故の危険性と比較したらどうなるか。
「危険だから乗用車の配備をやめろ!」という人はいませんが、どうして法定速度を超えられる乗用車が販売されているのでしょう。

「自動車は社会にとって必要だから犠牲は無視してよい。」ということならば、国防のために配備されるオスプレイに関してはもっと無視 してよいことになるでしょう。個人や企業が娯楽や利便のために利用する自動車でさえ必要であるなら、国家が公費を投じて配備する乗り物はさらに必要性が高いはずだからです。

我々は常に様々の危険と隣りあわせで生きています。つまり危険を受け入れ、開き直って生きています。しかし、そのままでは受け入れられないリスクについては対策を立てています。リスクと「共存する」または「共存しない」という判断をしながらリスクと付き合うことをリスク管理と言います。
リスク管理においては「怖いもの」と「危険なもの」を混同しがちです。

極端な例えですが、ジェットコースターの事故による犠牲者と、遊園地へ行く途中での交通事故の犠牲者と、どちらが多かったかを比較すれば、交通事故の方が危険だということになるでしょう。でも「怖い」と感じるのはジェットコースターの方です。
オスプレイの問題は、リスク計算だけでは解明できない複雑な事情が背景にあるということです。
posted by 風営担当 at 00:00 | 歴史チャンネル