2013年02月18日

怖いものと危険なもの

(法務コンシェルジュメールマガジン2012年10月3日掲載)

小学校2年生の学校の帰り道、ちょうど今頃の季節でした。
田園都市線に乗って江田駅を通り過ぎたあたりで、車窓から見える小山の向こうに一本の煙が立っていました。
帰宅した直後にテレビを見て驚きました。その煙は横浜市内の住宅地に墜落した米軍機の爆発によるものでした。

三歳と一歳の幼児2名が全身火傷により翌日死亡し、そのお母さんも火傷のため4ヵ月後に亡くなりました。そのお母さんが車椅子に座っていた様子を覚えているのは、当時私の母親も同じ病院で入院していたからです。自分の母親は助かったけれど、あのお母さんは死んでしまったのだ、という思いが当時、私の心を離れませんでした。

私にとって軍用機は「怖い」存在です。
今住んでいる場所にしても、座間基地から近いところなのでヘリコプターの離発着の様子をよく見かけます。
そう言えば最近はヘリポート付の高層マンションがあって、「かっこいい」イメージではありますが、危険だからヤメロという反対運動はあるのでしょうか。
オスプレイの配備について、「危ないから反対」という気分は当然だと思いますが、「では他のリスクにはどう向き合っているのか?」と考えてしまうと、なかなか難しい問題を含んでいます。

軍用機でなくとも航空機はたくさん飛行しています。オスプレイが消えても沖縄に限らず広く全国で墜落の危険はあるのです。「飛行」を 「通行」に置き換えるなら自動車はどうなのか。国内だけで毎年6000人以上が着実に死亡し数万人が死傷していますが、オスプレイによる事故の危険性と比較したらどうなるか。
「危険だから乗用車の配備をやめろ!」という人はいませんが、どうして法定速度を超えられる乗用車が販売されているのでしょう。

「自動車は社会にとって必要だから犠牲は無視してよい。」ということならば、国防のために配備されるオスプレイに関してはもっと無視 してよいことになるでしょう。個人や企業が娯楽や利便のために利用する自動車でさえ必要であるなら、国家が公費を投じて配備する乗り物はさらに必要性が高いはずだからです。

我々は常に様々の危険と隣りあわせで生きています。つまり危険を受け入れ、開き直って生きています。しかし、そのままでは受け入れられないリスクについては対策を立てています。リスクと「共存する」または「共存しない」という判断をしながらリスクと付き合うことをリスク管理と言います。
リスク管理においては「怖いもの」と「危険なもの」を混同しがちです。

極端な例えですが、ジェットコースターの事故による犠牲者と、遊園地へ行く途中での交通事故の犠牲者と、どちらが多かったかを比較すれば、交通事故の方が危険だということになるでしょう。でも「怖い」と感じるのはジェットコースターの方です。
オスプレイの問題は、リスク計算だけでは解明できない複雑な事情が背景にあるということです。
posted by 風営法担当 at 00:00 | 歴史チャンネル

2013年02月08日

今を見るか、未来を見るか

(メールマガジン法務コンシェルジュ2012年7月4日号掲載)

夏バテのせいでしょうか、事件や事故のネタに興味がわかないので、今回は気分を変えて歴史の話題にしてみます。
先月、エリザベス女王の即位60周年記念祝典のニュースを見て、ふと思い出したことです。

旧日本海軍の駆逐艦の艦長に工藤俊作という人がいまして、太平洋戦争中の1942年3月、日本と英国との間で戦われた「スラバヤ沖海戦」の際に、撃沈された英国軍艦の漂流乗組員422名を救助したという話です。

敵兵の救助自体は珍しくもありませんせんが、潜水艦の魚雷に狙われるリスクが高い状況で、わざわざ停船させての救助活動は勇気が必要な決断でした。
そんな無駄なことをする暇があったら敵をやっつけろ、というのが常識でしょう。
この話が歴史の波間に消えて56年後の1998年。

昭和天皇の英国訪問の際、英国では戦時中の捕虜の扱いなどで反日感情が再燃しだしていました。天皇のパレードの際に、戦中に捕虜となった人々がわざと背中を向けて並び立つ姿が報道され、日英の経済関係の悪化も懸念されました。

そんな折、タイムズ紙に掲載された一通の投書が話題になりました。
元海軍士官によって、冒頭の救助活動の話が紹介され、当時の反日的ムードを和らげたのです。工藤艦長が、救助した英国人達に告げた第一声は次のようなものだったそうです。
「貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」

さて、この話をどのように料理しましょう。
私にとっては、「人道主義」とか「武士道精神」とかいうオチでは面白くないのです。
工藤艦長の行動は、その人なりの冷徹なリスク判断の結果だったのではないかと。
なぜならこの人物について、戦時中のこんなエピソードが残っているからです。

ある日、見張り員が流木を潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しました。
全員がいっせいに戦闘配置に付くわけですから、間違いだとわかった後で、見張り員への周囲の目線がいかに厳しいものとなるかは容易に想像できます。当時の軍隊で兵がミスをすれば、鉄拳制裁が当たり前です。

ところが工藤艦長から呼び出された見張り員は、相当キツイお叱りを受けると思っていたところ、その注意力をほめられたそうです。
間違いを恐れずに思ったことを報告するのが見張り員の役目ですから、この場では褒めるのが確かに正解です。

しかし200人の部下を持つ艦長が、作戦行動中にわざわざ一兵員を呼び出して褒めるということは、よほど深い配慮があってのことです。
東電の事故でも露呈しているように、間違いを恐れずにリスクを指摘させることが、組織管理者にとっていかに重要であり困難であることか。

私には、冒頭の救助のエピソードも、冷静なリスク判断の結果だったのではないかと思えます。
今を見るか、未来を見るか、という目線の違いが、ギリギリのところで判断を分けたのではないかと。

救助活動は戦時の常識においては「単なるムダ」であったという評価かもしれません。
しかし、政府の一員である一艦長の行動が、今でも日本政府に対する国際的な評価にささやかながら影響を及ぼしているのです。
この話は救助された英国海軍士官が書いた一冊の本に記されています。

「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた日本帝国海軍中佐、工藤俊作に捧げます。」
サー・サミュエル・フォール著 「マイ・ラッキー・ライフ」
posted by 風営法担当 at 00:00 | 歴史チャンネル